2016.11.29. 10:30
ひとり子独生女の原理的見解
最近になって、ひとり子独生女の理解に混乱があるため、その意味の原理的見解を表明したい。
1.ひとり子独生女の概念定義
聖書には、イエス様はひとり子であると記されているが独生女に関するものはない。しかし、真のお父様はひとり子だけでなく独生女という言葉も言及されることも多く、原理的に見ても当然あるべき用語である。
み言選集第1巻14ページの「イエス様が残された天の精兵としての条件を完備した神様のひとり子であることを皆さんは知らなければならない」(1956.4.8)をはじめ、約1500回、ひとり子について言及され、み言選集第7巻304ページには「神様のひとり子であるイエス様がこの地に来られ、もしも死ななかったならどうなっていたでしょうか?イエスがひとり子であると語られたので、神様は彼の前に独生女も送られていたはずです」
伝道の書7章28節で「わたしはなおこれを求めたけれども、得なかった。わたしは千人のうちにひとりの男子を得たけれども、そのすべてのうちに、ひとりの女子をも得なかった」と語られました。神様の2千年の歴史は新婦を探す歴史です。新婦を探す歴史です。それを否認しますか。新婦を探す歴史です」(1959.10.11)ではじまり、約180回、独生女について言及された。
ひとり子イエスは後のアダム(コリント15章45節)なので、最初のアダムも当然のことながらひとり子である。最初に人間始祖として創られた男性であるアダムはいかなる罪もない神様のひとり息子なのでひとり子である。それゆえ、ひとり子の元祖はイエスではなくアダムである。
二性性相の中和的、統一的存在である創造主神様は、男性であるアダムだけを創られたのではなく女性のエバも創造された。男性であるアダムがひとり子であるならば、堕落する前の罪のない女性であるエバは当然独生女となるのである。
そのため、み言選集第231巻22ページでは「堕落していない、神様の手によって創られたひとり子独生女がアダムとエバです」と語られた。
また、み言選集第7巻298ページには「イエスをひとり子であるとされました。ひとり子とは何をしてそのように言えるのでしょうか。神様の愛を受け、ひとりで神様を慰労することのできるひとりの息子を指します。エデンの園でひとりしかいなかったアダムが堕落することにより神様の愛を失ってしまったので、これを再び探すために送られた方がイエスでした。神様が愛をかけて最初に生まれた息子、ひとりしかいない息子であるというのです。そのため、ひとり子だというのです」と語られた。
ここで私たちは、ひとり子と独生女の概念を定義することができる。すなわち「ひとり子独生女は、サタンの原罪とは関係のない、神様の愛を受けた、神様を慰労することのできる息子娘」であると言えるのである。
2.究極的な宗教の真理は信仰告白によって可能である。
神様のひとり子独生女として生まれたアダムとエバが神様のみ言葉を信じ、成長し、個性完成して真の夫婦となり、真の父母となり、人類の真の先祖となって神様の創造理想である地上天国と天上天国を完成したならば、神様の救援摂理はもちろん、メシアの降臨、宗教、贖罪のための信仰生活も必要ではないということが原理的観である。
したがって、堕落によって原罪を持つようになった偽りの子女、偽りの夫婦、偽りの父母、偽りの人類の祖先であるアダムとエバの後孫が成した地上地獄と天上地獄を神様の創造理想である地上天国と天上天国に復帰するためには、原罪とは関係のない、神様の愛を受けた、神様の心情を慰労することのできる神様の真の子女、真の夫婦、人類の真の父母、真の先祖が新たに来なければならない。
そのため、神様の愛の実体であるひとり子として来られた方がイエス様であった。しかし、イエス様はもう一つの神様の愛の実体である独生女に会うことができず、真の夫婦、真の父母、人類の真の先祖となって、神様のみ旨である創造理想を完成させることができず、再臨の日を約束して亡くなった。(み言選集第7巻304ページ)
イエス様が地上で独生女に会って、真なる夫婦となり、真の子女を産んで真の家庭を成し、霊肉堕落圏内にいるすべての人類を霊肉両面において実体重生することのできる真の父母の位置にまで行かなければならなかった。
そのため、真の父母の位置は最初からあるのではなく、その出発地であるひとり子と独生女の位置から始まる。すなわち、ひとり子独生女は、真の父母としての出発であり土台である。
このように、再び来られる主はひとり子として来られ、独生女に会って真の夫婦、真の父母の位置にまで行かなければならない。しかし問題は、真の父母となるための出発であるひとり子と独生女の無援罪はいかにして可能なのか。独生女の無援罪はひとり子を通して成されるのかである。
この問題は自然科学のように客観的事実に基づいて説明することが不可能である。そのため、宗教的問題にはある程度まで説明することができるという制約がともない、その次には、心霊にひびく信仰として問題解決が可能なのである。イエスがメシアであることを客観的に説明することができないので、クリスチャン達は信仰告白によって彼を主として信じるのである。私たちも真の父母様を信仰告白的によって信じ、侍り、従っているのである。
私たちがメシアとして信じ、侍り、従う真の父母様は、私たちの信仰の基準として、各自の立場から自己中心的に解釈し判断すれば、結局、混乱と分裂のみをもたらすこととなる。真のお父様の在世時、私たちには理解し難いみ言葉や指示が多かった。
しかし、理解し難い問題はとりあえず保留にし、侍り従う過程において理解できたことが多かった。世の中でも親の言葉が理解できなかったとしても、子であるがゆえに親を不信することなく侍り従うことが子としての道理ではないのか。
今は、地上にいらっしゃる真のお母様が真のお父様と交感される中で私たちの信仰の実体中心となられ、基準となられる。真のお母様が無原罪誕生を語られるならば受け入れ、ある人が語るような、聖婚前の特別な儀式による原罪清算の主張を真のお母様が認められなければ、そのまま従うべきであり、第三者の立場から違う主張をすれば、結局、親不孝の結果のみを招くこととなる。
3.すべての人はひとり子独生女とならなければならない。
すべての人がひとり子独生女とならなければならないということは、クリスチャン達が聞いた時、確実に異端である。しかし、真のお父様はひとり子独生女の出発は、ひとりの人からはじまったが、ひとりのひとり子、ひとりの独生女で終わってはならず、全人類がひとり子独生女とならなければならないことをよく強調された。
このような教えは、私たち一人一人が皆、小メシアとなって、各家庭において真の父母とならなければならないという論理と一脈相通じる。
み言選集第41巻「真なる人生の道が何なのか。父としての神様に侍り、その父の真なる息子娘、すなわち、ひとり子独生女になるのです。ひとり子独生女となることが私たちが歩むべき人生の道であるということです」(1971.2.15)
み言選集第94巻「皆さんが苦難の頂点にいる神様を解放することのできるひとり子独生女となり、新郎新婦となって、神様の聖殿となり、神様の骨髄の心情を解放し、神様と共に愛の園に入ることのできる問題だけが課題として残っているのです」(1977.6.26)
み言選集第393巻「イエスがひとり子であるのと同様にひとり子独生女となって、神様が『あなたたち二人しか知らない』と言える出発をしなければならない。それ以外にはありません。それが、皆さんが祝福家庭であるということです」(2002.9.29)
結論
このように、ひとり子独生女の概念定義、ひとり子独生女の無原罪説に関する信仰告白、真の父母の出発と土台はひとり子独生女であり、特殊なひとり子独生女からひとり子独生女の一般化とグローバル化の原理的見解を通して、救い、復帰、重生、復活、再創造に至るまで、子女として、私たちの原理的「真の父母信仰」を振り返る機会となることを祈る。
2016年11月
元老牧会者会
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